Buddy Guy/バディ・ガイA〜「アイ・ガット・ザ・ブルース」


バディ・ガイの自伝「アイ・ガット・ザ・ブルース」
(ブルース・インターアクションズ刊)が日本で出版されたのは1995年だ。
今からちょうど10年前である。
バディとドナルド・E・ウィルコックの共著で、
原題は「Damn Right I've Got The Blues」。
これはバディが1991年にリリースしたアルバムのタイトル
「Damn Right, I've Got The Blues」からとったもので、
このアルバムは1992年、
グラミー賞の「ベスト・コンテポラリー・ブルース・LP」に輝いた。

バディ・ガイは1936年7月30日、ルイジアナ州のレッツワースで
小作人をしていたサムとイザベルの3番目の子どもとして生まれる。
本名はジョージ・ガイといい、両親と姉二人、弟二人に囲まれながら
マッチ箱のような家で生活をしていた。

貧しさゆえにガイ家の子ども達は学校が終わるとすぐに
家の手伝いなどをして働いた。
バディは毎日のようにロバに鍬を引かせて畑を耕し綿花を摘んだ。
夕暮れ時になるとやっと仕事から解放され、
バディは弟や従兄弟達と野球をして遊ぶ。
ボールがなかったため空き缶をボールがわりにしたそうだが、
音に敏感だったバディは空き缶が落ちた時の音で
それがどこに落ちたのかを推測することができたという。

輪ゴムを指にはめて壁にあてた時に出る音を楽しんだり、
ボタンの穴に糸を通し、指の間に渡してヨーヨーのように
引っぱたり緩めたりした時に出る音にバディは一生懸命耳を傾けた。
日曜の朝になると一家揃って教会へ行き、
全員が一緒に手拍子をして木の床を踏み鳴らしながら歌ったそうだ。

7歳の頃バディは両親の行く酒場で初めてギターと出会う。
ヘンリー・スミスという男が酔っ払いながら弾くギターを見て
すぐに彼はその虜になった。
ヘンリーの唯一のレパートリーは
ワン・コードしかない、ジョン・リー・フッカーの「ブギー・チレン」だった。

一方でバディに音楽の世界を教えてくれたのは、
ガイ家の宝物のひとつ、電池式のラジオであった。
バディはブルースだけではなく
カントリーやゴスペルも流す番組を好んで聴いており、
バディがブルースをロックに橋渡しできたのも
こうした彼の音楽的嗜好に端を発するものだったにちがいない。

★エルヴィスの『オール・シュック・アップ』も
(マディ・ウォーターズの)『フーチー・クーチー・マン』と同じように
よく歌っていたよ。俺にはどっちも変わりはないよ。
肌の色の違いなんか関係ないんだ。
そんなことは誰か他の人間に悩んでもらえばいいさ。
俺はいい音楽が好きなだけだ。
誰が演奏していようが知ったことじゃないね。
<バディ・ガイ>

そのうち両親がゼンマイ式レコード・プレイヤーを手に入れ
ブルースのレコードを手に入れるようになると、
バディも夢中になってマディやハウリン・ウルフ、アーサー・クルーダップ、
ロニー・ジョンソン、リトル・ウォルターなどが歌う
泥くさいブルースを聴くようになっていった。

ギターにとりつかれたバディは、弦の代わりに
網戸の針金を自分で引っこ抜いてペンキの缶に張り、お手製のギターを作った。
巨大な蚊が入ってくるのを防ぐための網戸だったが
バディはそんなのお構いなしだったので、
父親は絶えず金網を張り替えなければならなかった。
彼は誰からも手ほどきを受けず独学でギターをマスターしたのである。

バディが高校1年の時、母親が病に倒れたので
彼は家計を助けるために学校をやめて働くことになった。
しかし、バトン・ルージュにあるホールで
大スター、ボビー・ブランド、B.B.キング、ギター・スリムの演奏を観たときに
彼はこう決意する。
「B.B.キングみたいなギターを弾いて、
ギター・スリムみたいなアクションをやろううってね。」

1957年、バディはマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフ、
サニー・ボーイ・ウィリアムスン、ジュニア・ウェルズといった
南部出身のブルースマン達が活躍していたシカゴ行きを決意。
しかし、シカゴに来て半年でお金は底を尽き、
失意のどん底で帰郷しようと思った時に幸運は訪れる。
たまたま街ですれ違った白人の男に連れていかれた場所が
サウスサイドで一番有名なブルース・クラブ、「708クラブ」だった。
バディが店に入った時、演奏していたのはオーティス・ラッシュで
彼の口利きでバディはこの店で演奏できるようになった。
バディはバック・バンドまでつけてくれた
オーティス・ラッシュに心から感謝しているようだ。

そしてある日、とうとうその店にバディのアイドルだった
シカゴ・ブルースの帝王マディ・ウォーターズがやってきて、
彼の肩を掴んでこう言った。
「俺がマディ・ウォーターズだ。お前、腹へってないか?」
こうしてバディ・ガイはマディのバックでギターを弾くようになり、
マディの亡き後シカゴ・ブルース界のキングとして君臨するようになる。

バディの人生は多くのブルースマンがそうであったように、
波乱万丈の連続であった。
ジミ・ヘンドリクスやエリック・クラプトン、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、
カルロス・サンタナなど、数多くの有名ギタリストたちが
バディのギタープレイやフレーズをコピーしてお手本にしていたにもかかわらず、
彼は長い間不遇の時代を過ごした。
バディ本人が「夜、お祈りする時や、朝起きた時にいつも考えるんだ。
何でみんな俺が60近くになるまで、見向きもしなかったんだろうってね。」
と明言しているぐらいである。

ブルースやロックに傾倒していた多くのミュージシャン達は
「バディのギターは最高」と認識していたにもかかわらず
レコード作りにおいて、
バディが自由に音を作らせてもらえる環境が用意されていなかったため、
長いこと彼は真の評価を得ることができないでいた。

バディはジミヘンよりも以前にギターを歯や背中で弾くといった
サイケデリックで派手なパフォーマンスをやっていたし、
ライヴ中、屋根によじ登ったり、
外に出て雪の中を歩きながらギターを弾いたこともあるらしい。
客席に下りてギターを弾くことなど日常茶飯事だった。
人がやらないようなパフォーマンスをすることで
バディは生き残ろうと必死だった。
バディのパワフルなショウを観たものはそのド迫力な演出に脱帽する。

バディのバディたる所以はやはり誰にも真似できない感情表現だろう。
彼は感じたことをストレートにギターや歌に込めることができる。
彼の音楽にかける真剣な想いが苦しいぐらいに伝わってくるほどだ。
バディのギターを聴けば誰もが本物であると確信するはずだ。
クラプトンは、ことあるごとにバディの才能を絶賛した。

音楽業界に不満を抱きながらも
バディはひたすらギターを弾き続けじっとチャンスを待っていた。
そしてとうとう
1990年代に入ってからリリースされたアルバムが脚光を浴びるようになり、
やっとバディの真価が世間で認められるようになったのである。

今年の3月には念願だったロックの殿堂入りも果たす。
その時、B.B.キングとエリック・クラプトンに
肩を抱かれながらバディが見せた会心の笑顔は、
多くの音楽ファンの胸に今でも焼きついていることだろう。
天国にいるスティーヴィー・レイ・ヴォーンも
空の上から微笑んでいたにちがいない。
それほどバディ・ガイは世界を代表するロック・ギタリストたちから
神様のように崇められてきた存在なのである。

★その生々しさと迫力、つまりどうやったら自分の感情をそのまま
出せるか、それをバディから教わりたいんだ。
正直にしかも焦らずに、自分の気持ちを出すことなんだよな。
ところがいざバディと一緒にやると、そんな余裕はなくなってくる。
バディに横で「さあ、歌ってくれ!」って言われると気おくれしちゃうんだ。
<スティーヴィー・レイ・ヴォーン>

★ジミはバディに惚れ込んでいたわ。
私が持ってた『ストーン・クレージー』をいつも聴いていたわ。
バディのソロがたっぷり聴ける『フォーク・フェスティバル・オブ・ザブルース』も
よく聴いていたわ。
『ファースト・タイム・アイ・メット・ザ・ブルース』が一番気に入っていたみたい。
<リンダ・ポーター/ジミ・ヘンドリクスの恋人>

★バディのギターは、人が話しているみたいに聞こえる。
あれを最初に始めたのはバディだよ。
ジミ・ヘンドリクスよりもずっと前さ。
フリー・スタイルのブルースを始めたのもバディだった。
フィード・バックを始めたのもバディさ。
しかもブルースの枠を超えた演奏をしていても、
マディ・ウォーターズを神と崇めている。
バディはマディやリトル・ウォルターと一緒に
ブルースの殿堂で同じテーブルに座れる人間なんだよ。
<カルロス・サンタナ>

<05・6・10>









































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